少し躊躇った後、厳しい顔のまま告げた。
「いいか、エマヌエーレ。……万が一、皇太子から夜伽を命じられても、そなたは断れぬ」 「ぇ……?」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 夜伽とはつまり、皇太子と閨を共にするということだ。 「公の場で求められることはない。私がその場にいれば、断れるように口添えはする。だが、もしそなた一人の時に命じられたら、謹んで受けよ」 「ですが! 私は、レオナール王子の婚約者ですっ」 王族の婚約者を夜伽に命じるなど、普通は考えられない。 王太子は哀れむようにエマを見つめた。 「皇太子は、何をしても許される立場だ。正当な理由があれば抗議はできるが、多少の暴挙には目をつむるしかない」 その言葉に、エマは悟った。 「……私がオメガだから、受けねばならないと言うことですか?」 「そうだ」 ためらいなく頷く王太子に、エマは唇を噛んだ。 もしエマがアルファかベータであったなら、ランダリエは非情な命令だと抗議するだろう。 「帝国のオメガは、娼婦と変わらぬ。同時に、我が国の『聖樹』は特別だ。皇太子が特別なオメガとして『聖樹』を所望した場合、受けねばならん」 王太子の言葉に、エマは俯いた。 『聖樹』は、王家の所有物だ。外交のカードとして使われるのは、当然のこと。 国のために、王家のために、道具として扱われるのが定めだと分かっていたが、目の前に突きつけられると、恐ろしくて仕方なかった。 「今残っている『聖樹』で、皇太子の夜伽をできる年齢の者は、そなたしかいない。そして、そなたはまだ正式な妃ではない」 王太子が続けた言葉に、愕然とした。 まさしく、その通りなのだ。 エマがレオナールの婚約者に選ばれたのも、年齢の釣り合う聖樹が他にいなかったから。歳の近い『聖樹』はもう他国の王族へ嫁いだ後だ。 そして、王太子夫妻には子が三人もいる。王家の血筋を残す意味でも、エマは必要ない。 ただ、しきたりによって、王子の婚約者に選ばれただ「ぇっ?」 「エマ」 あっけにとられているうちに、ルシアンはそっとエマの左手を取り、甲に柔らかく唇を落とした。 「っ……ル、ルシアン様……!?」 息を呑んだエマに、ルシアンは真剣な眼差しを向ける。 「春の女神も、きっと嫉妬するでしょう。あなたの美しさを表す言葉が、見つからないのです」 そう賛美するルシアンの赤い瞳には、真摯な光が宿っている。冗談や戯れではないようだ。 「えっ……あ、あの……?」 うまく返せず、エマは戸惑った。 ルシアンはひとつ息をつき、声を落として囁いた。 「春の薔薇よりも可憐な貴方を、エスコートする栄誉を、どうか私にお与えください」 「……は、はいっ」 エマはコクリと頷く。 まさか、ナタリナやクロエが見ている前で、ルシアンがこんなふうに言ってくれるなんて。 胸の奥で、何かがふわりと弾けるような感覚がした。 (今までのも……全部が戯れの言葉じゃなかったのかな?) ルシアンは色事に慣れているから、甘い言葉を本気にしないようにと、自分を戒めてきた。 でも、ルシアンは甘い眼差しで、エマを見つめている。 「ありがとうございます。エマ」 「ぁ……っ」 嬉しそうに笑う顔に、鼓動が跳ねる。 心臓がドキドキと早鐘を打って、体が熱くなってきた。 (そんな目で見つめられたら……また好きになっちゃう) 今朝は抑制剤を飲んできたのに、腰の辺りがズクンと疼き出す。蕾に入れた静香石も、クルンと回った。 「んッ……」 ビク、と震えると、ルシアンがそっと手を離した。 ゆっくりと立ち上がり、エマを見つめる。 「エマ、こちらを」 ルシアンはクロエから小さな箱を受け取り、それをエマに差し出した。 淡い桜色のリボンがかけられたジュエリーボックスは、それだけでひとつの宝飾品のようだった。艶やかな漆黒の木肌には繊細な彫刻が施され、蓋には小粒のダイヤモンドが星の
腰のあたりまで一気に伸びた薄紅色の髪に、唖然として目を見張る。 「す、すごい……」 「まあっ、なんとよくお似合いでしょう!」 ナタリナの感嘆する声に、目を瞬かせた。 鏡には、ふわりと柔らかく波打つ、薄紅色の長い髪が映っている。髪の色と長さが変わっただけで、まるで別人のようだ。 「髪の色、キレイ……」 ぽつりと呟くと、鏡の中の少女も、同じように口を動かす。 瞬きすれば、同様に真似をする。 (……これが、僕?) 驚きのまま鏡を凝視していると、クロエがにこやかに笑いかけた。 「エマヌエーレ様。お化粧を致します」 「あ、はいっ」 令嬢は化粧もするのだと思いだし、鏡の前で身を正した。 化粧も初めてで、クロエに化粧水や乳液を塗りこまれたり、筆でくすぐられたりして、慣れない感触に逃げ出したくなる。目を閉じておくように言われたので、エマは目をつむったまま、化粧が終わるのをひたすら待った。 ようやく化粧が終わると、最後に薄い絹のリボンが喉元に結ばれる。 「終わりました。エマヌエーレ様、どうぞご覧下さい」 クロエの声に、やっと目を開ける。 鏡を見て、また驚いた。 「えっ?」 エマの頬はうっすらと紅潮し、唇は薄く艶を帯びている。 薄桃色の髪は、耳の上から取った髪束を左右で編み込み、後ろでひとつに結い上げられていた。結び目には、ドレスと同じ蜂蜜色のリボンが結ばれ、小さな白い花の飾りが添えられている。 残る髪は肩から背にかけて流れ落ち、光を受けてやさしく輝く。 妖精のように可憐な少女が、鏡の奥から驚いた顔で見つめていた。 「なんとお美しいっ!!」 ナタリナの感激した声が聞こえる。 クロエも満足そうな顔で頷いた。 「ええ。春の女神のようです。このように素晴らしい機会を与えて頂けて、誠に光栄ですわ」 二人からの賞賛も、エマの耳を通り抜ける。 (この少女が、僕?)
「このドレスにしましょう!」 二人の意見が一致して選ばれたのは、陽だまりのような、やわらかな色合いのドレスだった。光を受けてきらめく絹の生地は、蜂蜜色から淡い金へと色を変えながら、胸元から裾へと流れるように繊細なレースをまとっている。 胸のあたりまで隠れるデザインで、鎖骨が見える程度だろう。カミラ嬢が着ていたような、艶やかで官能的なデザインではない。露出が少ないことに安心した。 「エマヌエーレ様。コルセットが少しきついかもしれませんが、体型を保つためですので」 「う、うん……」 クロエの言うとおり、コルセットを締めると苦しかった。 女装をすると聞いて心配していた胸の部分は、コルセット自体に胸のふくらみが象られていて、そこに特殊な詰め物をすると、体型に違和感がなくなる。 布製のパニエをつけてドレスを着ると、一気に女性らしくなった。 「可愛らしいですわ、エマ様!」 「ありがとう、ナタリナ」 「次はこちらへ。エマヌエーレ様」 クロエに促されて鏡台の前に座る。台の上には、小瓶に詰められた香油や、粉白粉(こなおしろい)、薄紅、筆道具などが整然と並べられていた。 エマは初めて見るものばかりで、興味深く眺める。 「あぁ、惜しいですわ」 エマの後ろに立ったナタリナが、残念そうに呟く。 「どうしたの、ナタリナ」 「いえ。せっかくエマ様が可愛らしくなりましたのに、御髪(おぐし)の長さが残念で」 「それは仕方ないよ」 男のエマが、髪を伸ばしている方が不自然だ。 それに女性騎士は髪の短い人が多いから、ドレスを着る場面では髪飾り等で工夫していると聞く。 今回の女装も、そうすれば問題ないと思っていたが。 「あら! わたくしったら、うっかりしてましたわ」 クロエが、ポンと手を打った。 そして、エマとナタリナに向かって、ニッコリと微笑む。 「エマヌエーレ様の御髪についても、きちんと用意してありますのよ」 クロ
ルシアンが軽く頭を下げて詫びる。 ナタリナは驚いたように瞬きした。伯爵であるルシアンが侍女に頭を下げるなど、普通はありえないからだ。 「いえ……デイモンド伯爵に頭をお下げいただくようなことではございません。私こそ、出過ぎた真似を致しました」 ナタリナは頭を下げて、エマの後ろに控える。 クロエはエマを見つめて、嬉しそうに微笑んだ。 「ルシアン殿の仰ったとおり、素晴らしい素材ですわ」 「クロエ。言葉を選んで下さい」 「ま、わたくしったら、つい」 クロエはクスクスと笑って、控えていたメイドに合図を送る。 そして、エマの前で深く膝を折った。 「エマヌエーレ様。本日はわたくし、クロエが、着替えをお手伝いさせて頂きます」 「あ、ルシアン様が仰っていた、変装のことですか?」 「さようでございます。エマヌエーレ様には、こちらをご用意いたしました」 そう言ってクロエが指し示した先には、可愛らしいドレスが数着ある。黄色に薄桃色、水色と黄緑と、春らしい色合いのものばかりだ。 「あのっ、これは、女性のドレスでは……?」 エマが戸惑っていると、クロエはにこやかに頷く。 「ええ。このお姿でしたら、外出されてもエマヌエーレ様だとは気付かれませんわ」 「え、でも……!」 (僕がドレスなんて、似合うはずないよね?) 女装をするのだと言われて、エマは及び腰になった。 とっさにナタリナを振り返ると、なぜか感心したような顔をしている。 「たしかに、エマ様によくお似合いかと思いますが」 「ナタリナ!?」 「エマ様は、とてもお美しい方ですから」 ナタリナのうっとりした声を聞いて、エマは援護を諦めた。 (もうっ、ナタリナは僕のこと美化しすぎだよ!) 「あの、僕が女装なんて、おかしいですからっ」 エマは精いっぱいの反論をするが、そこへルシアンが口を挟んだ。 「おかしくありませんよ、エマ」
ルシアンの言葉に、エマはワクワクしてきた。 皇太子も王太子もいないので、失敗を恐れて緊張する必要もない。 (ルシアン様をご案内できるなんて……しかも、二人きりって!) 憧れのルシアンと、一緒にいられるのだ。 エマは浮かれそうになったが、脳裏にレオナールの姿がよぎる。 「ぁっ……でも……」 「どうしました?」 「その……先日、ルシアン様をご案内させて頂いた件で、王子に酷く叱られてしまいまして……」 もし、ルシアンと一緒にいると知られたら、レオナールは激しく怒るだろう。 いくら王命だと言っても、レオナールは自分勝手な理屈でエマを責める。このことが知られたら、どんな仕打ちを受けるか分からない。 エマは俯いて、両手をぎゅっと握りしめた。 (また、折檻を受けるかもしれない……っ) 思い出すだけで、身が竦む。 尊厳を踏みにじられ、苦痛に泣き叫んでも、許してもらえない。 あの時の恐怖に怯えるエマは、気付かぬうちに体を震わせて黙り込んだ。 (やっぱり、体調が悪いって言って、断った方がいいのかな……) ルシアンなら、エマが断っても許してくれるだろう。 せっかく、好きな人と一緒にいられる機会だったのに、それを手放さないといけないなんて。 「……も、申し訳ないのですが、」 「エマ」 そっと頭を撫でられる。 優しく呼ぶ声に、おずおずと顔を上げた。 「エマ、大丈夫ですよ」 ルシアンが優しい顔で微笑んでいた。 見惚れるほど端麗な顔に、輝く赤い瞳。間近で見つめられ、エマの胸が高鳴った。 (ルシアン様っ) ドキドキしていると、ルシアンがまたエマの頭を撫でる。 「心配することはありません。第二王子が狭量な人間なのは承知してます。エマは今日、王太子殿下の補佐として、馬がけに行っていることになっていますから」 「えっ?」 「王太子殿下にも、了承を得ています」
「エマ様……カミラ様が仰った言葉を気になさる必要はございません」 ナタリナが慰めるように、エマの背中を撫でた。 平民のエマには後ろ盾がないから、衣服はすべて支給品のみで、私服もなく装飾品も持っていない。 貴族出身の『聖樹』は、法衣でも、宝石をちりばめて美しく着飾っていたし、ブローチや指輪もつけていた。西殿(さいでん)では、ときどき聖樹同士でお茶会が開かれるが、その際は法衣以外の服装も許されている。 お茶会に呼ばれたことは片手で数えるくらいしかないけど、いつもエマは法衣のまま出席した。他の服を持っていなかったからだ。 「僕は王子の婚約者なのに、質素な法衣しか持ってない……カミラ様は素敵なお召し物で、とても美しかったのに」 「カミラ様は公爵令嬢ですから、比べても仕方ありませんわ」 「うん……」 「第二王子は、エマ様を貶めて喜ぶような男です。エマ様は何も悪くありません」 優しく背中をさする手に、エマもコクリと頷いた。 (王子やカミラ嬢の言うことは、気にしないようにしなくちゃ……) いちいち傷ついていては、ナタリナまで悲しませてしまう。 エマは支度を調えると、ナタリナを連れて天耀宮(てんようきゅう)へ向かった。 北殿(ほくでん)の天耀宮へ到着し、控えの間で待っていると、ルシアンがやってきた。 銀色の長い髪を一つに結び、赤い瞳が穏やかにエマを見つめている。 今日の服装も素敵だった。 春の時期に相応しい、深緑色の外套に、生成りのハイカラーシャツと、薄いグレージュのベスト。ボタンには琥珀色の石があしらわれていて、とても洒落たデザインだった。 (ルシアン様は、いつも素敵なお召し物だ) 洗練された貴族らしい格好に、美しいルビーのような赤い瞳が魅力的で、つい見惚れてしまう。 そんなルシアンに比べると、自分の服装が